礼拝案内

日曜日 10:30~11:45 2階礼拝堂

礼拝では、讃美歌を歌い、聖書を読み、祈りをささげ、牧師の「説教」を聴くことが主たる内容です。「説教」と言いますが「お説教」ではなく、聖書をまんべんなく読むための「教会暦」に従った聖書の箇所から、牧師が「今の時代に生きる我々への神様からの語りかけだと理解するところ(メッセージ)」を話します。 そのメッセージの要旨を、まだ教会に来られたことのない方にも読んでいただいて、こんな話をしているのかと関心を持っていただけたらと思い、紹介させて頂きます。 この「説教要旨」をお読みになられて、天満教会に行ってみようと思ってくださると有難いです。ぜひご感想を携えて天満教会をお訪ねください。

 

説教要旨

 

2025年1月19日

- 降誕節第4主日礼拝  -

説教『「人の子」と名乗られる方』

説教者  小西 望 牧師

聖書 エゼキエル書2章1~6節 マルコによる福音書10章42~45節

 

主イエスは、しばしばご自身のことを45「人の子」という不思議な表現で呼ばれました。

旧約の時代、この言葉は初め単に人間という意味として用いられていましたが(詩8:5等)、やがてさらなる意味が現れてきます。

まず預言書、特にエゼキエル書でこの語は主が預言者を呼ぶときに特徴的に使われています。エゼキエルは捕囚地バビロンで、亡国と捕囚を招き寄せたのは自分たちの罪であったことを民に悟らせるべく召されました。4「恥知らずで、強情な人々」をその気づきへと導くことは困難で、苦しい仕事でした。たじろぐエゼキエルに主は6「人の子よ、あなたはあざみと茨に押しつけられ、蠍の上に座らされても、彼らを恐れてはならない」と呼びかけ、たとえ受難があっても主の意思と言葉に生きることを告げられました。その主の2「霊」とみ言葉(3:1~)に支え導かれ、彼はこの困難な使命へと立って行きました。

もう一つ、ダニエル7:13~には、この世に審判と完成をもたらす「人の子」の姿が記されており、この箇所を主イエスご自身語ってもおられます(マルコ13:24~、14:62)。

そのほか、福音書で主イエスがこの語を用いられている箇所をさらに拾うと、そこには“権威”の問題(マルコ2:10・28等)、そして受難(マルコ8:31、9:31、10:33・45等)が指し示されていることを知ります。

主イエスが最初の受難予告に際して言われた「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(マルコ8:29)とは、私たちが何に権威を見て生きていくのか、との問いでもあることを思います。主イエスは私たちに神の意志、そして神の国のよろこびをもたらすために自ら犠牲となられました。この方を主と告白することは、私たちの生き方を欠いたかたちではできません。その意味を、今再びそれぞれに振り返りたく思います。

 

 

 

2025年1月26日

- 降誕節第5主日礼拝  -

説教『福音の種蒔き』

説教者  小西 望 牧師

聖書 イザヤ書28章23~29節 ルカによる福音書4章42~44節

讃美歌 53・ハンドベル・195

 

ご不明な点は、お気軽に教会までお問い合わせください。